経済論なんて、全然解らないんだけどね。
だから、下記の引用が正しいか詭弁に満ちているのか、
本当のこと言うと、よくわかんねぇ。
でも、なんとなく、言えてるような気もする。
以下、2ちゃんねるのなんかの板にて。
"ID:9wLtUarP0"の言ってることって正しいのかなぁ?
(まぁ、正しいなんてどこから見るかでいっぱいあるんだけど)
2007/09/26(水) 19:25:55 ID:9wLtUarP0
格差がわるいとかいうんじゃなくて、大多数の国民が消費能力をなくすことによって市場が縮小するわけっ。
これが大問題。
サッチャー レーガン ブッシュ父子は、需要は、支出合計さえ同じなら効果は同じと勘違いした。
つまり金持ち100人の資産=貧乏人10億人でも、金持ちが支出すれば無問題と思ったわけ。
でも金持ちがいくら、大豪邸 高級自動車 買っても、それは小さな内輪の枠内で「いわゆるニッチな」「小さな市場」であって、一回購入しておしまいで、そこには、サービスする人間もいらないし、他の労働機会も作らない。10億円の大豪邸を金持ちがかっても1人の営業だけいればいいし創る作業員も少ない。
でも2000万円の住宅を売り買いするには、たくさんの営業・建築家・労働者が必要で、なおかつ彼らの収入を貯金する銀行や、彼らの生活出費する百貨店・学校・娯楽施設など、どんどん経済効果が広がるわけ。かって金持ちのがたくさん消費し、貧乏人は節約して貯金するから市場が縮小するというトンデモ理論が正論としてとおった。今から考えるととんでもないペテンだ。
実際には金持ちは消費を全部はせず、資産運用だけして、消費は縮小した。
そして貧乏人は貯金なんてゼロなんてごろごろで消費すらできない有様だった。市場原理主義というのは、格差を生むとかそういうことでなく、「市場を破壊し」「資本主義を崩壊させる」トンでも理論だった。
小泉の一番大きな罪は、「資本主義経済のメカニズム」を「根本的に破壊しまくった」ところにある。
格差うんぬんはそのプロセスにしかすぎない。
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元のスレ発見。
http://news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1190904497/
★年収200万以下増 格差拡大
・民間企業で働く人の去年1年間の平均年収は435万円と9年連続で減少したことが、
国税庁の調査でわかりました。年収200万円以下の人は昭和60年以来、21年ぶりに
1000万人を超え、大幅に増加しましたが、その一方で年収1000万円を超える人も
増加し、給与格差が拡大している状況が明らかになりました。国税庁の実態調査によりますと、サラリーマンやパートなど、去年1年間を通して民間
企業で働いて給与を受け取った人は4485万人で、前の年よりも9万人、率にして
0.2%減りました。1人当たりの平均年収は434万9000円となり、前の年と比べて
1万9000円、率にして0.4%減り、9年連続の減少となりました。年収別に見ますと、
200万円以下の人は前の年より42万人増え、1023万人と昭和60年以来21年ぶりに
1000万人を超えました。一方、年収が200万円から1000万円の人は減少しましたが、
1000万円を超える人は224万人と、前の年より9万5000人増え、給与格差が拡大
している状況が明らかになりました。業種別に見ますと、金融保険・不動産業が563万円と、10年ぶりにトップとなり、
農林水産・鉱業は297万円で、9年ぶりに300万円を下回りました。これについて、日本総研の山田久主席研究員は「格差の拡大には非正規の雇用が
増えていることが影響している。シニアの嘱託が増えたり、主婦が子育てをしながら
パートをできるようになったりしたのはいいが、その一方で中年フリーターのような
低所得で働く人が増えている。気になるのは、比較的若い世代で非正規の雇用が
増えていることで、スキルが身につかず、低所得を余儀なくされる人が増えないよう、
必要なスキルが身につくような仕組みを作る施策が必要だ。背景にはグローバルな
競争が進んでいることがある。企業は低コストの労働者を増やさないと対抗できなく
なっていて、放置しておけばこの傾向は今後も続く」と話しています。
http://www3.nhk.or.jp/news/2007/09/28/d20070927000137.html
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こちらは、昨年見つけてクリップしておいた記事。
これが書かれた時点、昨年の7月で、2000年のデータを
基に書かれているから、今はこの比ではないだろう。
【斎藤貴男「二極化・格差社会の真相」】
2006年7月24日 掲載
相対的貧困率2位の日本を待ち受けているもの
日本の相対的貧困率は13.5%で、先進国ではアメリカの13.7%に次ぐ貧困大国になっていた! OECD(経済協力開発機構)がこのほど公表した「対日経済審査報告書」が、衝撃的な実態を明らかにしている。
相対的貧困率とは、所得から税金などを差し引いた可処分所得が分布の中央値の半分に満たない家計の割合を示す指標のことだ。米日に続くのはアイルランド(11.9%)、イタリア(11.5%)の順で、調査できた17カ国の中では3.8%のチェコが最も低かった。
報告書は、貧困層の拡大が著しい日本経済のあり方に懸念を表明。正規雇用と非正規雇用とに二極化されていく労働市場の改善を求めたほか、特に片 親世帯の貧困が深刻化した点を挙げ、低所得者向けの教育制度を充実させるなど階層間の格差が固定化されない施策が急務だと強調している。
驚くべきことに、OECDのデータは2000年時点のものだった。調査と分析の間のタイムラグがあるのである。社会的弱者への差別をそのまま政策化した構造改革を徹底した小泉政権の誕生は翌01年。現状はどうなっているのかと思うと、背筋が寒くなる。
貧困層がアメリカ並みの厚みになってしまった現実は極めて重い。戦争で手柄を立てなければ浮かび上がることができない若者たちの命が、あの侵略 帝国の覇権を支えてきた。歴代大統領は彼らを物言わぬ消耗品と位置づけ、中産階級以上の不人気を招きかねない徴兵制を回避してきたのである(ベトナム戦争 の一時期を除く)。
小泉首相の構造改革、格差拡大戦略は、アメリカ社会を理想のモデルとしている。だとすれば、貧しい家庭の子どもたちを待ち受けている運命は明 白だ。東京大学の苅谷剛彦教授(教育社会学)はある学会で「格差と表現するからわからなくなる。“inequality”(不平等)以外の英訳が見当たら ないのが目下の日本社会だ」と報告していた。
折しも福田康夫・元官房長官が自民党総裁選での出馬を断念し、米国の傀儡(かいらい)というか、植民地の酋長のような安倍晋三官房長官の圧倒的優位が伝えられている。
このままでは最低最悪の世の中がやってくる。▼斎藤貴男(さいとう・たかお) 1958年生まれ。早大卒。イギリス・バーミンガム大学で修士号(国際学MA)取得。日本工業新聞、プレジデント、週刊文春の記者などを経てフリーに。「機会不平等」「『非国民』のすすめ」「安心のファシズム」など著書多数。
長い夜の散歩道。根岸森林公園から中華街
・ ・ ・
家から坂をだらだら登って、夜の根岸森林公園。
月のない夜だった。時季外れの流れ星が見えるかと思ったが、横浜も都会、
街の明かりのせいかとても星は少ない。しばらく天の川も見ていない。悲しいことだな。
思っていた以上に木々の繁った森の中に暗い階段を何段も何段もそっとおりて、池の横。
そう、エリーと抱き合って寝ていた静かな夜、あの池だ。
深い森の静寂に浸りながら、しばし夜露の芝生で佇む。
やがて歩き出し、右手の高台で、みなとみらいの灯を北東に望む夜景スポットを発見。
いにしえの競馬場観覧席跡地の廃墟前、その名の通り芝生広場というのか。
そういや、この建物が窓から見えるアパートに住んでいたこともあったっけな。なんでこんなうら寂れた所に住んでたんだか今でもよく分からないけ
ど、チョーズで働いてたみっちゃんが、蓑沢入口の交差点辺りにいたからかな。本当に昔のことを全然覚えていないんだよ。きっと毎晩浴びるほどそこらの
Barをハシゴして飲んだくれてたからだろうよ。それでも、よく青木とラスカルが「エザっくん走り行こう」ってきてくれてたな、あの部屋は。
オレがロングツーリングで1カ月ほど留守にしていたら、乞食の大沢のバカが勝手に部屋に侵入して、某走り屋チームの看板かっぱらって置いといたのを見つけられるわ、部屋ん中、ハルマゲドンにされるわしたのも、ここだったな。
森林公園の高台から、そんな蓑沢の裏通りに降りて、ここに牧場があったなんてことも思い出す。横浜の中区で、朝から牛の啼き声がしてたもんな。シュールだったな。さすがに今はもうなかったけど。
狭い一車線の裏道ゆるい坂を登れば、右に米軍根岸ベース。ティムやマックがいた頃は、よく中に入っていたな。ミッドウェイに乗ってる将校の名
前を出せば誰だって入れた頃。でもどうやって原子力空母の将校の名前を知るんだ。そう、だからやっぱり誰でも入れる所ではなかったわけだ。
エリアに入った途端に呆れるほど広い空間が広がって、白い所謂ハウスが芝生のなかに余裕綽々な間隔で建ってた。
名前は忘れちゃったけど、麦田にあったドノバンの雑貨屋で仲良くなった白人の大佐のハウスで年越しのパーティーしたこともあったか。
増田俊郎の"YOKOHAMA "を頭の中で奏でようとしたのに、ちっとも歌詞が浮かんでこない。かわりに出てくるのが柳ジョージの"フェンスのむ こうのアメリカ"じゃ、ちょっとがっかり。待て、結局どっちも同じじゃないか。増田俊郎=トシスミカワ(柳ジョージへの楽曲提供名)。「YOKOHAMA too much memories.笑いながら歩くセイラーもみんなどこかに消えてしまったけれど・・・・」、なんでこの曲が発売された当時関西にいた俺が当時興味もなに もなく知らない街だった横浜の曲を知っていたんだろう。あの雪の函館でエリーに出会うまで横浜なんか見知らぬ街だったのに。そんな横浜生まれの増田俊郎が その後神戸に移り住んで行ったのも奇妙なすれ違いだ。
根岸ベースからまた少し坂を登って、海軍司令部ゲート前。歩哨がいないけど大丈夫なのか米軍。
消防署前、バスが行き交う不動坂上。
ソーダ水の中に見える本牧のコンビナートの景色を売りにしていたあの店、まだやってるんだな。今は店と海の間にマンションが建ち景色はもう何も見えないという。酷い話だ。
コンビナートといやぁ本牧間門のNTT横浜会館も民営化によって既になし。とうとうこの街は本牧の港になんの感慨も抱かなくなってしまったということか。
と呟きながら、また森林公園沿いに山元町五丁目交差点。これでやっと一周。デカい公園だ。
あの頃、森林公園の中の周回路でミニバイク・タイムトライアル選手権をやってたのを思い出す。もう時効だ許せ。XE75(オレ)、MR50改(ラ
スカル)、 ポッケ改(大黒)、RZ50改(青木か?)、etc.etc.
みんなで、夜な夜なセカンドマシン持ち込んで馬鹿過ぎ。2台づつ同時スタートのトライアル。誰だったかスタート20秒で、登って左のコーナーで芝生にオー
バーランしてスイング式のゴミ箱に突っ込んでたな。ああ、水道屋の息子だ。
ラスカルのRG250Γ・Ⅱ型ハーベイのリアシートで横須賀に行ったこともあったな。今でもガンマのエグゾーストノートと倒し込む時の感覚がはっきり残っている。あいつも巧かったな。
本牧A突堤の若造たち、生き残ってたヤツらはみんな上手かった。
伊勢佐木町親不孝通りのギリシャ料理屋の子もいたっけ、サロニコスか。いやサロニコスは南京街のアテネのオーナーじゃん、いや、あ奴はジョージ・マルケジーニアスだ。じゃやっぱり気弱なギリシャ人はサロニコスだ。
大黒や青木、ラスカルたちと、よく夏は湘南へミニバイクを連ねて出掛けたもんだった。まだ原付がノーヘルでよかった頃だったな。もうオレらは横浜
のこの界隈でも生粋のアホばっかだったから、海パン穿いてTシャツ着てその上から浮輪つけて走ったり、水中メガネしてバイク乗ったり、オレは下駄履いてバ
イク走らせたりしてたよな。
そんなバカなカッコで朝比奈峠で、他の革ツナギ着たような他府県ナンバーの400や750をみんなでインからアウトから抜いて行くのが最高の楽しみだった。夜の明けぬうちから逗子の一色海岸に走ってって、落とし穴を堀りまくったりもしたよな。
・・・・記憶の中の永遠の悪童ども、今も走っているか!?
そして、そのまま鷺山通りから途中を左、竹之丸通りへ。こんな坂を登り切った丘のてっぺん不便な場所なのに洒落たマンションが増えてるな。山手ブ
ランドってやつか。野球グラウンド横の小道を下りながら、SAAB900Sで雪の日に立ち往生し10m進むためだけにチェーンをつけたことが蘇る。ガリッ
と氷を噛んだフロントタイヤのバックトルクまで残ってるな。
木立が切れ視界が開けると遠くベイブリッジの白銀の煌き。本牧の紅いクレーン越しに久しぶりの光景だ。
竹之丸のアパートは今もあった。嫌いだった猫を飼ったのはこの部屋。雨の初秋、庭で鳴き止まない震える子猫にそっと手を伸ばした。ある日いなくな
るまでの温かい記憶。小兎のビッケを死なせてしまったのもこの部屋か。玄関で泣いていたオンナの名前が思い出せない。胸の大きな成人式を過ぎたばかりのオ
ンナの子だった。飼っていたハスキーの名前ウルフィーは覚えているのに、その子のことはなにも思い出せない。
2サイクルマシンばかり7台もあったバイクを500Γとスクーターに整理し、でも結局500Γをバリィ君に売ってNSRに乗り始めたのもこの部
屋か。いや、しばらくΓとNSRは同時に乗ってたんだ。NSRは随分いたずらされたっけな。ある日第三京浜でミラー両方かっぱらわれてたのに突然気付いた
こともあったな。いやなにせNSRだけにサーキット走行の多かったことで、ミラーが無いことに全く違和感もなく、後方確認は目視を基本にしていたからか。
その後もタンク盗まれて、しかたなくオールブルーのマシンのタンクのみ赤いのを探してきて、変なトリコロールな色のマシンになってたっけ。1999年に南
麻布で盗まれるまでの10年間はまさに、それ以前の乱交的乗り潰し乗り換え多情時代から、NSRに貞操を誓った一穴時代になって行ったわけか。
そうか、横浜最後の場所だったここに住んでなかったら南麻布に移ることもなかったわけだ。ふうん。
結局、横浜では3回中区内で引っ越して4カ所。最初に山手町、次に森林公園裏の蓑沢、そうか妙香寺台の崖の上がその次か。で、竹之丸。
ふと、そのまま中華街まで足を延ばす。ちょうど35周年のお祝いをしているWindjammer前。
23:40頃に辿り着いたが、もう片付けをしていたので、店には入らず、結局ほかのどこにも寄らず帰ってきた。
金子に会いに二階に上がり込んでも良かったんだろうけど、今はもう金子以外知った顔もいないし、いい加減歩き疲れてたんだ。
でも、35年間ありがとう。外人船員Barが乱立していた頃から今に至る移り変わりの早い中華街。随分色んな店がシャッターを閉じてきたのに、今も続いているなんて奇跡のようなことだ。
オレはジョージさんよりも、亡くなった敦子さんが頑張っていた頃に通い始めたから、今もカウンターの左上に掲げてある彼女の遺影にそっと挨拶をして飲むんだ。
南麻布でちょっとは間が空いたが、もうかれこれ27年。一時期は一晩で3回も出入りしていたなんて、なにやってたんだか。
初めて行った時のことは覚えていないけど、きっと酔っぱらっていたんだ、何故かアイリッシュコーヒーを何杯も飲んだのだけ覚えている。冬だったのかな、そうすると。
これからもよろしくな。孤高の帆船、Windjammer。
結構歩いたな。
裸足にスリップオンだったので、左足に靴擦れ。痛いよ。
横浜、長い夜の短い旅。思い出すことばかり多い夜。
YOKOHAMA too much memories.
※1979年8月25日1st ALUBUM「GOOD BYE」9月25日SINGLE「YOKOHAMA」
http://home.att.ne.jp/green/tosh/profile.html
※2 http://www.kanaloco.jp/lmcolumn/entry/id_789
・ ・ ・
なぜだかメガネをせず歩きだした夜道は距離感が皆目掴めず、
疲れさえも自分では判らなくどこまでも歩いて行ける気がした。
ぼんやりしっとりくらいしずかな横浜の夜。
検索ついでに、増田俊郎が、「トシ... read more
on YOKOHAMA too much memories.